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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 天使の赤褌 1



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 小説 

     天使の赤褌         

                     今田   東

                  1
    
 気だるい音楽が茶店の薄暗い照明の中に溶け込んでいた。テーブルの上にはハンドボールの球のような照明がシューガーの入った白磁の壺を冷たく照らしていた。グリンの硝子の灰皿には押し潰された煙草が数本うずくまっていた。そのどれにもピンクの口紅が吸い口に付着していた。髪を肩まで垂らした少女が、薬でも飲んだように全身を弛緩させて座っていた。真っ赤なワンピースの裾が彼女の組んだ足の分だけ開き、そこから赤いストッキングの太腿が妖しく見えていた。その足はまだ少女の幼さを残していた。が、顔の表情は巧みにその少女の面影を隠すように厚く化粧で覆われていた。爪にはピンクのマニキュアが丁寧に塗られていた。その手に科を作って、ときたまコーヒーカップを持ち口に運ぶ仕種は娼婦のように見え、左手の指に挟んだ煙草から立ち昇る煙にも、何処か崩れた雰囲気を醸し出していた。女はみんな娼婦だと言った言葉があったが・・・。
「どうです、あの娘に興味がありますか?」
 マスターが中年の男に声を掛けた。さっきから男はじっとその少女に視線を張り付けていたからだった。声を掛けられた男が黙ったままでいると、
「最近、あの手の女が増えましてね。最初は電話の前に座って黙ってコーヒーを飲んでいたんですが、お客さまの邪魔になるしあのボックスを貸したんですよ。本人は十八だと言っていますがね、まだ、十六で、高校を中退したらしいんですよ。今の学校はどうなっているんでしょうかね。最近は入ったけれどすぐに辞める子が多いんですってね。それはまあ色々有るらしいですけどね。私等には判りませんが。ああやって、一日中座っている時がありますよ。どう言えばいいんでしょうか、私など、中学を出てすぐにこの世界に足を入れて、どつかれけとばされてコーヒーの淹れ方やら、挨拶の仕方やら、掃除のやり方やら、洗い方をとことん仕込まれましたが、今じゃ、そんなことを言うと、口うるさいってすぐに辞めていきますよ。それに、まあ、ボーイフレンドと言うのが五六人は詰め掛けてきて、結局、ボックスは占領されるし商売はあがったりです。そんな溜り場になっては、他のお客さんはもう寄り付きませんしね。だから、うちでは、家内と二人でやっているんですよ。その方が疲れません。大根足の女ですが、愛想は良いほうですから、なんとかかんとかやってますよ」
 マスターは一頻り喋って、注文のコーヒーを馴れた手付きで淹れた。アベックの客が窓際のボックスに座っていた。
「まだ、あのように突っ張っている子の方がいいのかも知れませんよ。近ごろは楚楚した女の子ほど判りませんからね。この間も、『おじさん、遊ばない安くしとくわよ』て粉かけてきましたよ。見ると髪を三つ組に垂らした純情そうな感じの娘でしてね、多少その気にもなりましたが、私もこの道でおまんまを食っている男ですからね。一目見れば心の底まで見えますからね。そんなに金が欲しいんですかね。自分を汚すことなんか何とも思ってはいないんですかね。どんな家庭の子なんですかね。・・・あの娘はれっきとした家の子でしてね。あんな恰好はしていても純なものですよ。意外と堅いですよ。ああやって声の掛かるのを待っていますが、一度もついて行った事がありませんよ。私の知るかぎりは。ああやって、何かを待ってるて言うのが、あの子の青春なのでしょうかね。何を待ってと言うでもなく待っている。今時、流行ませんがね。これはって、思うと猛然とアタックをしていますよ。それが今日的とでも言うんでしょうかね。この頃の女の子はなんせ積極的になりましたから」
 マスターの言葉は途絶え様になかった。時折視線をボックスの女の子にチラチラと投げていた。手はダスターでグラスを拭いていた。鼻の下に髭を蓄えていたが、それが半分白くなっていた。少し大きめの瞳は垂れていて穏やかな輝きがあった。唇は上下が厚く人の善さそうな感じがした。
 男は、この店の常連と言うほどではなかった。散歩に出てこの店の前を通り、コーヒーの香りに誘われて入ったのが一か月ほど前であった。それから、散歩に出るとここに寄っていた。コーヒーはこの辺りでは旨いほうであった。少し香ばしい匂いが口に残るのがここの特徴であることに気付いたのは二日目であった。入るといつもカウンターに向かった。そして、静かにコーヒーを楽しんだ。こうしてマスターに声を掛けられたのも今日が初めてであった。男は決まった職業を持ってはいなかった。と言うより、たまに頼まれた原稿を書いたり、これも頼まれて講演に出掛けるくらいの仕事しかしていなかった。自由業と言うのが男の職目であった。
 そう言えば、あの子は良く見掛けたな、と思った。今日のようにまじまじと見たのは初めてであった。どうしたと言うのだろうか。今日に限って、あの子のことが気になったのはと男は考えてみた。どこかで逢ったのかな、と考えたが、すぐには思い出せなかった。男は冷めてしまったコーヒーを口に持っていき最後の一口を飲み干した。
 ああ!と声を上げそうになった。確かに逢っていた。それも全く雰囲気の違うところでだ。その意識があの子に視線を向けさせる原因を作っていたのかも知れない。
 あれは、確か、この前と言っても二日前だが・・・。
「あの、あたいと純愛ごっこしない?」
 思い出したとき、少女が男の後ろに立って声をかけたのだった。アイショドウとアイラインを濃くし、ピンクの唇がなまめかしく動いていた。声には幼さがあり、言葉には少し甘えたところがあった。
「私に言っているのかい」
 男はその子の瞳を真っ直ぐに見て言った。その子は瞳を伏せずに男の目を見据えた。
「あたいとなら嫌ですか?」
 真っ赤なワンピースの胸の辺りの布地が緊張していた。
「さぁて、おじさんには、きみの本意が良く判らなくてね。そして、言葉がもう一つ分かりかねるんでね」
「純愛ごっこと言う意味?」
「まあね」
「それは、先生が言ったんじゃないん」
 少女の口から先生と言う言葉が出て男の記憶が完璧に蘇った。
 二日前、ミッション系の私学へ『これからの女の生き方』と言う講演を頼まれて行った時に、控え室にコーヒーを運んで来た女学生であった。紺のセーラー服に赤のスカーフが良く似合っていた。化粧気のない肌が透き通るほど白く、細い切れ長の瞳は深海を思わせるブルーであった。膝を隠した少し長めのスカートから形の良い脹ら脛が出ていた。あの学校は県下でも女子高としてはトップを行く良家の子女が通うと言う事で有名なところであった。
「きみはなんでこんな所にいるんだ」
 男は呆然として言った。
「学校が退屈になるとここに来るの。そして、こうしてぼんやりとしているんだわ」
 少女はどうしてそんな質問をするのかと言わんばかりに言って、
「あたいを何処かに連れてって」       
と付け加えた。
「何処って、おじさんをからかうものではないよ」
「からかうなんて、そんな事はしません。あたいはここに何日も座って観察をしてたんですけど、みんな嫌らしくて、『いくら』『良いことして遊ばない』とか、大人ってどうしてそんなことしか言えないのかしら」
「まあ、それは無理もないよ。そんな格好をしてそこに座っていれば、男はきみが誘ってくれるのを待っていると勘違いをしてもしょうがないよ。その服装じゃ尚のことだ」
「先生は、そんなに道徳的だったかしら。三島由紀夫じゃ無いけれど、不道徳の奨めを講演したんではありませんか。表面上は」
「まあ、どのように聞いたかは、きみの感性に任すより仕方がないが、あれは言ってみれば、パラドックスと言って・・・」
「分かってます。不貞を奨めることによって、純愛を説こうとしたんでしょう」
「分かっているではないか、だから・・・」
「だから、純愛ごっこをしましょうと言ってんの」
「きみの言うその純愛ごっことは一体どんな事かね」
「先生の若い頃のように、と言えばいいのかな」
「その先生と言うのは辞めてくれないか」
「だって、先生なんでしょう」
 マスターは頬を緩めて俯いていた。肩の辺りが揺れていた。
「つまり、プラトニックラブてことかね」
「そんなに、ラブに憧れるって可笑しいですか?」
 少女は真面目に言った。
「だったら、その化粧は落として欲しいな。きみをそれではどこへも連れていけないよ。それに、ちゃんと学校へ行くこと、そうでないと、ごっこは出来ない」
「いいわ。その代わりに私を一人の女としてエスコートをしてくださらないと、本当に不良ごっこに走るから」
「レディーとして扱えと言うのだね」
「ええ、先生は私をマイフィャレディーに教育して下さらなくては駄目なんです。ここにいて、ずうとそんな人が来るのを待っていたんですもの。あらゆる誘惑の手から逃れて」「それは、それは光栄だと言わねばならないのかね」
「じゃ、ちょっと待ってて」
 と言って、少女は化粧室へと消えた。
「大変なことになりましたね」
 マスターが同情したように言った。
「まあ、あの子の家庭はこの地方では中流以上だし、ちょつと、レールを脱線してみたいって年頃だろう」
「あの年ごろの子はとかく難しいですからね」
「そんなこともないよ。週刊誌がああやって面白可笑しく書くもんだから、あの子等の年代の子はみんなそうなんだと思い、気分が焦るんだよ」
「あのように、心は一つでも化粧と衣裳でせめて違った生き方をしてみたいてところですかね」
「常に、人間と言うのは変身願望があるんだよ。自分だけこうなんじゃないとか、みんなとは違うんだとか、まあ、そう思わないとつまらんかも知れんがね」
「そんなものですかね」
「教育がなっていないんだよ。個性を殺して、平均的な人間を作っているんだから。知識ばかり詰め込んで実践の方法を教えないんだから。人の心まで秤にかけて売ろうて世の中なんだから。先生のロボットなんだから。勉強のマシンなんだから。生き方に疑問を持たなくてはね、これでいいのかってね。判断力を持って初めて自主的に生きられるんだから。恋をしなくちゃあ、愛さなくちゃあ。今の若い子はみんな出来過ぎるんだよ。だから、感動をする心も育たないし、柔軟ではないんだな。同じ顔をしていて気味が悪くなるよ。のっぺらぼうとしていて、勉強の事しか頭にはないんだよ」
「そんなもんですかね」
「だから、勉強なんかどうでもいいって反逆するんだよ。本当に、勉強なんかいいんだ。幾ら頑丈な基礎をこしらえても、立派な家は建ちゃしないんだから。設計図は描けても、駄目なんだから。一人の人間では何もかも出来りぁしないんだから。何でもいい、自分に合ったものが一つ出来ればいいんだから。錯覚させる世の中では、覚めたときに辛いよ、苦しいよ。こんなもんだったのかって考えこんじゃうもの。そして、今まで何をしていたんだろうかって不安になるもの」
 男は、分かり切ったことを滑らかに喋っている事に驚いていた。こんなに言葉を口にしたのはかなりの時間があったと思った。講演で語ることとは違う。言葉を金にする行為とはまた違う、人間としての義憤が心情的に語らせていた。
 マスターは化粧室の方へ視線を走らせた。男も釣られてその視線を追った。
 ドアを背にしてそこに立っているのが先程の少女かと見紛う程であった。真っ赤なワンピースから黒と黄のストライブのワンピースに着換えていた。化粧を落とし、マニュキアも洗われていた。髪はストレートに肩に流していた。
「その方が綺麗だよ。とてもいいよ」
「だって、このままでは、誰も声を掛けてくれないわ」
「だろうね。高貴過ぎて近寄り難いものな」
「さあ、約束よ。私を何処かへ連れてって」
 少女はけなげに言った。気が付いたが、ストッキングも黒に換えていた。

 彼女、橘由美と出会ったのはこのような経過があった。

                  2
 男は、大木田禎蔵と言った。今は余り仕事はしていないが若い頃は中央でかなり名を馳せたと言うことだった。新聞社を経て評論家になり、戦後のデモクラシィについて、論戦を張り国民にその浸透を促したと言う。そして、小説、戯曲、と発表した。その総てがこぞって読まれた時期があった。その彼が地方に越したことには、二通りの逸話が残っている。ある疑獄事件を追い過ぎて身の危険を感じ都落ちをしたと言う事と、今で言う不倫の関係が発覚し一人で故郷に帰ってきたと言うものであった。逸話と言うものは何時の場合でも本人の人格を伝える充全ではないものだ。
「疲れた」と言う言葉が彼の表現としては最もベターであるのかも知れない。

 今は、この町の真ん中を蛇行して流れる、香美川の上流の農家を買い晴耕雨読の日々であった。時折、小文の原稿を依頼されたり、講演に出掛ける位しか動かない。だが、彼は、2Kほど離れた所に出来た団地の中にある「糸車」と言う喫茶店には毎日のようにコーヒーを呑みに下りていた。往復が散歩に格好の距離であったからだった。山一つ越せば、この県の地域開発の広大な高原が広がり、そこには、多目的ホール、体育館、テニスコート総合グランド、図書館、児童館、身障者リハビリーテーション、青年館、農業改良センター、美術館、屋内プール、特産物品館、教育実習館、県民の森、オリエンテーリング、ゲートボール場、温泉サウナ、そして、飛行場等まで出来ていた。
 彼が来た頃は朝日を浴びた縁側から、澄んだ日には香美川を挟んで発展している町が見下ろせたものであった。町へ出るのも今では三車線の立派なバイパスが出来て、タクシーでものの二十分も走れば良くなった。庭先にまで家が立ち子供の泣き声や母親の叱る声が常に交錯していた。庭先と言っても前の家までは百メートルは離れていた。
 東京には別れた妻の夏美との間に出来た、鮮一郎と加奈子がいて、それぞれが別の家庭を営み、夏美は二人の子の間を渡り鳥のように住まいを換えているらしかった。夏美と別れたのは、不仲があったわけではなかった。ここに越してくるときに一緒に来なかっただけだった。東京生まれの夏美には田舎の生活が我慢できなかっただけだった。自然に疎遠になり両者合意の元に離婚が成立したのだった。その事で、子供達からは反対はなかった。それは、個人のプライバシィーの尊重を幼い頃から教えていた。  
「まあ、動けなくなったら連絡してよ。扶養してくれたぶんは返すから」
 と鮮一郎は言い、
「長い間一緒にいたんだから、別々に生きてみれば。かあさんのことは鮮ちゃんと交互に面倒を見るから安心して。田舎の無い私達に田舎が出来たと思うことにするわ」
 と加奈子が言った。
 夏美には、教科書の印税が入るように贈与した。子供達は鮮一郎が天麩羅屋を開いていた。し、加奈子は新聞記者と一緒になっていた。
 
ここに越してきてもう五年が過ぎようとしていた。
「出物があるんだが、どうだろう」とゴルフ仲間の不動産屋の石上に持ち掛けられて買ったのは、十三年前であった。
「年を取ると都会の生活が欝とうしいよ」           
 といつか言ったことを、石上が覚えていて、捜してくれたのだった。
「瀬戸内に面した温暖で山海の珍味が多いよ。」
 と言われたときに買っていて何時かそこで暮らそうと思ったのだった。
 南に面したなだらかな斜面に、二百坪の畑と八十坪の屋敷が付いていると言う事だった。その当時三百万で手に入れたものだった。今では到底そんな端した金では手にいれる事など出来はしない。
 五年前のことを考えると身の毛がよだつ。スキャンダルに殺されると言うが、ノンフィクション物で財界のドンと代議士を追っていて、まんまと罠に嵌られたのだった。若い頃はそんなへまはやらなかったのだが、その事があってから体力より、気力、一番大事な集中力の衰えを知らされたのだった。
                  3
 「ルルルールルルー」
 と電話が鳴った。玄関、居間、寝室、書斎と一本の電話を分岐してそれぞれ受話器を置いていた。大木田は一番近い受話器を取れば良いようにしていた。ゴールデンウィークにこちらに来てみたいと言う、鮮一郎からの電話であろうと思った。この前の電話のときにそのようなことを言っていたのだ。だが、商売はどうするのかと聞くと、みんな東京から居なくなるよ、と言う事だった。そう言えば、そうかと変な具合いだが納得したのを覚えている。彼は、縁側にいたので、書斎の受話器を取った。
「はい。素朴庵です」
大木田は住まいをそう名付けていた。
「先生ですか?」
喫茶店で逢った少女の声が受話器からはじけた。
「先生ではないが、私は大木田禎蔵と言いますが」
「あの、あの、わたくしは、いやだぁ。橘由美と言います。この間「糸車」でお願いした件ですれど・・・」
「さあて、一体なにでしたでしょうかね」
「純愛ごっこをしてくださると言う約束をしたのを忘れたのですか?」
「いや、忘れるほどのもうろくはしていないつもりだが・・・」
「だったら、これから先生のところに伺ってもいいですか?」
「ここが分かるのかね」
「はい。分かったからこうして電話をしているんですわ」
「なるほどね」
 大木田は、この橘と名乗る少女がどうしてここの電話番号を知ったのだろうかと思った。電話番号は二人の子供とある友人にしか伝えていないのだった。無論電話帳には記載されてはいないのだ。つまり、悪徳な公務員がよくやる手である。大木田はそんなときに、どうして正正堂々と名乗れないのかと義憤を感じたことがあった。電話番号を幾ら隠しても知る方法はあった。少し頭を使えば良いことなのだ。隠す人間の少し上を行けばそれ位すぐに調べられるのだ。そのことに気づかない馬鹿がよく隠す。そんなことをするから、子供が誘拐されたりするのだ。防備が却って変な確執を広げ、悪戯に事件を大きくすると言う事が分からないのだろうか。まあ、その程度の人間しかそんなことはしないのだが。 大木田が公表しなかったのにはそれなりの訳があった。
「不思議なんでしょう。電話番号が分かったことが」
 由美は少し茶目て言った。
「ああ、きみは探偵になる素質があるのかな」
「そこいらの田舎の子とは違うでしょう」
「ああ、少し違うようだね」
「私には、超能力があるの」
「ほほ、きみはエスパーだとでも言うのかね」
「いいえ、Vのビジターなのだわ」
「それでどのような方法でキャツチしたんだね」
「だから言っているでしょう。私にはあらゆる情報をキャツチする能力があるって」
「そう言ったね」
「だからなの。先生の顔を頭の中に浮かべると住所、氏名、年齢、電話番号がすらすらと書けるのですわ」
「それはまた厄介な病気だね」
「そう言うだろうと思った。今先生は、焦げ茶の一重に薄い青の兵子帯を締め、書斎でこの電話を受けているでしょう」
「その通りだが・・・。では、きみは今日学校をさぼり、紺と白のストライプのワンピースを着て「糸車」の前の公衆電話から掛けているだろう」
「当たり。だけど、学校はさぼったのではありません。今日は開校記念日なのですわ」
「おじさんも、今日は何にもしない日なんだ」
「狡い。そう言って私との純愛ごっこをしないつもりなんでしょう」
「出来ればね。今日は別の約束があるのでね」
「嘘です。誰かからの電話を待っているんでしょう」
「まあ、その通りだが・・・」
「その電話は、今日はありませんよ」
「どうして?」        
「分かるんですって。先生の事なら総て」
「ほほう、それは厄介なことになったね。おちおち風呂にもトイレにも入れないでは無いか」
「洗濯物が溜っているのでしょう。どうせろくな物をしか食べていないのでしょう。これから、私が行って食事を作ってあげましょうか?こう見えても、私はうまいのだから天才って言われているのだから。先生は何が好物ですか?」
「私の総てが分かるんだろう?」
「ああ、・・・。分かります、鰺の塩焼きとか、辛しめん鯛子とか、金ぴら午傍とか、酢蓮根とか、法蓮草のおしたしとか・・・」 
「それは、君の親父さんが好んで食べる物なんだろう」
「先生とうちのお父様とはそんなに年が近くはありせんわよ。父が三十九で母が三十七なんですもの」
「ほほ、それじぁ、まだ牛とか豚とか鶏とかが食卓を飾っていると言うわけだね」
「はい」
「ところで、『糸車』のマスターが言っていたけれど、どうしてあんな嘘を付くんだ」
「うう、どんなこと?」
「学校を中退して、年齢が十八だと言うことさ」
「だって、そうでも言わないと、茶店には入れないし、あれでもあそこのマスターちゃつかりしていて、私がいるために客が増えたんだから。だから、私のボックスを何時行ってもいいように明けていてくれるんだから」
「双方の利害が一致していたと言うわけかね」
「ええ、そうよ。それより、何か欲しいものはありませんか?」
「さぁて・・・」
「さあて・・・、では分かりません。具体的な表現をしていただかないと」
「本当に、来て料理をしてくれるって言うのかい」
「ええ、本当の本当」
「では、その店で一番大きな鮭を買ってきてくれないか」
「しゃけですか?」
「そう、魚の鮭だ」
「鮭と言うとさけのことですか」
「そうだ」
「はい、わかりました。買い物をしてすぐに行きます」
 喜喜とした声が受話器の中に残音として残っていた。
 大木田も何やら心が浮き立つのを感じた。

          4 

目線を下げると大きな造成地が広がっていて、歯の抜けたような空き地に秋桜が咲き誇っていた。先日大木田は庭の片隅に咲いていた鈴蘭草を取って書斎の花瓶に差したのだった。ここに来て、都会生活で忘れていた自然の営み、四季の変化を改めて感じたのだった。小川の細流に水の音を感じ、鳥のさえずりに生命の存在感を、陽の出に暖かさを、月に憂いをと言う風に馴染む事が出来るようになっていた。彼はここに来て急ぎの仕事が無い限り陽と共に起き陽が隠れると共に床に就く生活をしていた。嘗て人類が陽と共に生活したように、陽を信仰の対象にしたように、そして、火をあらゆる生物が恐れながら生活の中に溶かし込みその恩恵を祈りの対象にしたように、また、水を命の源としたように、花鳥風月を愛で心を潤したように、彼は自然と同化しようとしていた。そして、自然との対称こそが人間を成長させたことを知っていた。
「知識が人間の持って生まれた知恵を駄目にしている」
 と言うのが、彼の考えになっていた。それは、知識が先行して、知恵と言う本当の物を忘れていると言うことであった。知識が産み出すものが文明で、知恵が産み出す物が文化であると言う結論に達することが出来たのは、自然の匂いが心に潤潤に染み込み感じさせてくれたのだった。知恵は経験が産み出し、更に経験が知恵を真実の物にしていくのだ。先達者の知恵を今こそ掘り起こすべきではないだろうか、その事をライフワークとして取り組もうと考えるのだった。
 その第一段として、背後の山肌を一町分程買い受けようとしたが、代価を聞いて諦めたのだった。そして、その土地を貸しては頂けないかと持ち掛けたところ、何に使うのかと言うので、薬草を植えるのだと言うと、十年間は貸してもいいがそのときに返すか買取って欲しいと言う答えが帰ってきたのだった。また、その人が言うには自分は前の団地を造成するときに沢山の土地を売ったから暇を持て余しているので、薬草園を手伝わせてはくれまいかと言うのだった。
「下刈りはわしが致しますから、それに、耕運機で耕しますから。あそこにはぎょうさんのはみ(蝮)がいるもんで慣れんと入れませんよね。今は余計に集まりましたけえ。こん山奥の開発を始めてから裏山にぼっこう逃げてきましたですよ。そん時に捕まえて一升瓶に入れて焼酎漬けにしたのがありますけえ持ってきましょうかな。切り傷にはよう効くし、飲んだらあそこはぴんぴんになりますしな」
 と言って、金歯の前歯を光らせていた。
「今その蝮が高い値で売れるそうですよ」
「金はもういりやせん。無いときには欲しいと思いましたけえどな、金では本当に欲しいものは買えんと言うことが分かりましたけえ。あの山も、削り取って造成して建て売りをするから売って欲しいと言うてきましたが、金やこしいりゃせんけえ断りやした。あんたはよそもんじゃあけえど、薬草を植えると言うのでな、売ってもええし貸してもええと思うんですんじゃ」
 大木田の家より少し上がったところにある、本家普請の大きな幾重もの本瓦葺の屋根と遠州を思わせる庭園の美事さが、代々の受け継がれた土地を売って勝ち取ったものである。その家が、山の持ち主の森山元作の家であった。今、元作は繁った山肌に鍬を入れ、鎌を入れているところであった。その話がまとまってから、大木田は植物図鑑に首っぴきの日が続いているのだった。薬草を植える時期、栽培、効能、の研究であった。

 大木田は縁側の陽溜りに腰を掛けてぼんやりと庭の隅に咲く矢車草に見入っていた。けなげと見る人間は傲慢なのだろうか。今の人間はそんな草花の存在にすら心を動かさなくなっているのが現状である。それは、慈しみの欠如か、感性の低さなのか、心に余裕が無くなっているのか、その事が幸不幸なのか分からないが、心の扉を開かせないと言うことは本当のようであった。それは、人間の身体の成長が著しく良くなったのに比べ、心の発育が遅れ、バランスの崩れを感じるのもその一つだ。身長を例に取って見ても、牛乳の摂取量より砂糖の消費量が大きく係わっていることは統計に表れている。蛋白質より葡萄糖が人間の成長に不可欠であると言うのが定説になりつつあると言うのが現状である。生態系のバランスは極端に突然にある一部分を攻撃するのだ。幾ら人間が自然に似た自然をどんなに巧く作っても自然の前には叶わないのと言うものだ。快適な自然環境が人間の桃源郷とするならば、自然を共とした生活が必要なのではあるまいか。

          5

「先生!」
 若々しいピンク色の声が聞こえてきた。なだらかな坂道から庭が見え、縁側で考え事をしている大木田の姿が映ったらしく、由美が声を投げて寄越したのであった。大木田がその方を見ると白いホットパンツに真っ赤なトレーナを着けた由美がにっこり笑って手を振りながら近づいていた。肩まで垂れている髪を靡かせ、頭に純白のベレー帽がちょこんとのっかっていて十六歳の由美のあどけなさと茶目気を表しているものであった。
大木田は立って、竹で作った簡単な木戸へと歩んだ。
「本当に来たんだね」
 大木田は愛想を崩して言った。
「はい。先生の言い付け通りに鮭を、それも一番大きい物を買ってきました」
 大木田は木戸を開けてゆっくりと縁へ向かう。足元にちらばる雑草をひょいひょいと避けながら歩く。それは一つの風景画のようだ。渋い濃紺の一重をラフに着こなしていた。
「先生って、意外とユーモアが判るのですね」
「ええ!」
「私が言った言葉に合わせてくださいましたもの。薄い茶で紺の兵子帯ではなく・・・」
「君だって・・・」
 二人の頬は緩んでいた。言葉の遊びがただ一回の出会いなのに打ち解けた雰囲気を作った。
「良い所ですね、気に入りました。それにしても、こんな広いお家にお一人で住んでいらっして寂しくありませんか?」
 縁側にスーパーの包みを置いて、物珍しそうに視線を投げていた由美が言った。
「東京とあまり変わりはしないよ、あそこは砂漠って良く言うだろう。働く町で住む町ではないんだよ。あそこは化学薬品でこちらは漢方と言えばいいのかな・・・」
 くぐもった大木田の顔があった。
「ところで、先生に是非聞き入れて欲しいんです・・・」
 由美がころりと言葉を変えて、真剣に大木田を見詰めた。丸い目が更に丸くなった。
「なんだろうか・・・」
「私先生の弟子にして欲しいんです」
「弟子」
「はい・・・」
「純愛ごっこではなかったのかね」
「いいえ、弟子にしてくださるならなんでもします」
「何がしたいのかね。知りたいのかな」
「来年の春までに、台本を書かなくてはならないのです。私、今演劇部の部長なのですけれど、今年も予選落ちをして・・・。だから、せめて、来年は・・・」
「卒業だろう」
「はい。だから、いい台本を残して・・・。演劇はやはり本が一番なのです。演技ではなかったんです」
「それはそうさ。だから、私にその書き方を教えてくれと言うのだね」
「はい。・・・駄目でしょうか?」
「さあ、私もこれからの生活について色々と考えていることがあってね」
「読んでくださるだけでいいのです」
「読むくらいなら簡単だよ。だけど、私の要求に耐えられるかな」
「はい、弟子にしてくださるのなら絶対に耐えてみせます」
 由美ははっきりした声を出して訴えるように言った。その顔は今まで見た事がない輝きがあった。
「わかった、私にできる事は何でもしましょうかな」
「ありがとうございます」
「その返事は、すべてが終わったときに言ってもらおうかな」
 上空に飛行機が横切っていた。
 大木田の住まいから空港へは二十分の距離にあった。東京便があったので日帰りが出来る事もこの場所が気に入っていた。
「さて、先生、鮭をどのように捌きましょうか」
 空を見上げていた目線を大木田に返して言った。
「塩焼きにして残りを水炊きにでもしてもらおうか」
「白菜と葱は買ってきていません」
「それは菜園にあるから私が取ってくる、鮭の方を頼みます」
「今夜はお祝いですね」
「何のお祝いかは知らんが、それもいいだろう」
「今まで御一人では美味しくなかったでしょう」
「なれればそうでもない、欲しい時に食べればいいという自由があってな」
「先生にお礼と言うのは、なんでしたらここで書かせてもらえませんか」
「ご両親がどういうか、また、大学はどうする」
「もう十八なのですよ、一人暮らしをしていいと言われているのです。それに大学はもう決まっているのです」
「おいおい、ここに来ると言う事はどうかな・・・」
「弟子は先生と・・・」
「それは昔の話だ…」
「いいのです、なんでもするって約束をしたのですもの、なんでも言ってください」
「さて、私も年を取っているが男なのだぞ」
「いいですよ、純愛ごっこも約束の内ですから」
 由美は少し俯いてそう言った。
「この歳になるとすっかり女性に心ときめかすこともなくなっている、それに、こう見えても私は人間としての理性も兼ね備わっている。ごっこの事は忘れてくれ」
大木田はなめらかに言葉を吐くように言った。
「今日、泊めてもらってもいいですか」
「いま、なぜそのようになるのかな」
「先生の昔の事を聞かせていただきたくて」
「知ってどうするのかな」
「先生の過去を知らなくては理解が出来ないと思って」
「そんな事を知らなくても、書く上で障害になるとはおもわれないけれど・・・」
「努力目標が欲しいのです、先生の経験を知ることでせんせいの今の心境と書く物の背景、文章もセリフもその体験とか経験で生まれるものではないのですか…」
「それは私の経験ではなく君の生き方によって作られると思うがな」
大木田は混乱のなかにいた。歳の差とは言え話が繋がらない事に少しいらだちを持った。
「先生、少し困った顔をしています」
その言葉と顔は幼い彼女の見せる艶貌であった。まるで男を困惑する兆発を感じていた。
鮭を捌き刺身と水炊きを食べて夕餉は終わった。
後片付けをしながら必要に泊まりたいと懇願していた。
「先生はどうして作家になられたのですか」
よほど私の過去に興味があるらしい事を大木田は感じながらも心のなかに土足で入り込んで来ようとする行為には辟易した。
「いまは辞めている」
このような話は苦手だった。こころのなかをさらす事はこの少女に弱みを見せることであると思ったからだった。
だが、大木田にはもの言えぬ心の高まりが生まれようとしていた。

          6

 由美の家には大木田が食事の支度や今後の事を話していて遅くなったので今夜は泊って貰って明日帰ってもらう事を話した。
「先生、御迷惑をおかけいたします。たぶん由美が強引に泊まると言ったのでしょう。私の家は構いません。もう大人の女性ですから自由に羽ばたかせてもいいと考えています。よろしくお願い致します」
 由美の母親は心配していないと言うようにそう言った。
「私の母も私と同じ年にお父さんと掛け落ちをしているのです。だから私の事は理解してくれているのだわ」
 由美はそう言って納得した。
 それでは、と大木田は少しあきれたが、今の世のあり方なのかとも思った。
 客間に布団を敷いてそこで休むようにと告げた。
「シャワーをお借りして休ませていただきます。今日は少し疲れたようですから」
 由美の言葉の変化に少し戸惑っていた。
「朝飯前に庭や山を少し走るぞ、それが私の日課になっているからな。ついて来たければそれもいい」
 大木田は菜園や薬草園の見回りを兼ねてのランニングであった。
「ええ、走るのですか…」
「そうだ、朝の空気はうまいぞ、一日を元気にしてくれる」
「家の方には何と言ってきたのかな」
「先生からお許しが出たら住み込みになるかも知れないと」
「許すと思うのかな」
「はい」
 由美は断言した。大木田はこちらの気持ちも体裁も一切考えていない事が現代の日本の姿かと思った。
驚いたことに由美はちゃっかりとパジャマを持参していた。さらに驚いたことに大木田の寝室に布団を抱えてきて並べた。
 隣で休む少女を置いて書斎に逃げ込んでたのまれていた原稿を書くことにした。

     7

「あの子、どうしています。聞くところによりますと、いい家の子でいい学校に通っていたのですね。近頃の女の子は分かりません」
 『糸車』のマスターはコーヒーを淹れながら大木田に言うともなしに言葉を落とした。
「押しかけられて困ったが、今では家政婦のように良く働いてくれている。そんなうわさが流れているのかね」
 大木田はここにもその噂が届いている事に貌をゆがめた。
「誰も自分の事を言わずに、他人の話に花を咲かせているのですよ。言わせておけばいいのですよ」
 入れたてのコーヒーをカップに注いで大木田の前に置いた。
「なんだか騒々しくなって、自由が阻害されている。阻害になれた都会から逃避して、自由をと思っていたがなんだか…」
 だが、大木田は嫌な思いはなかった。
「この前から先生の作品を読んでいるのですよ。お偉い先生だったなんて、失礼しました」
「知っていたの」
「ええ、この前。由美さんが来て、先生の内出子になったと喜んでいましたから」
「そう・・・」
「変身と言うのでしようか、あの頃の彼女とは比べられません。もともとがいい子だったってことですから。皮肉ではありません」
 大木田は香りを楽しんで口の中で遊ばせていた。
「物を書くと言う事は。新しい発見がなくてはそれを必然として書けないのだ、都会のなかにはそれが見えなかったからこうして田舎にひきこもったのだが・・・」
「厄介なものが現われたという事ですか…」
「だが、家事をしなくていいから、薬草の勉強ははかどっているよ。ここに来るとホッとする、この時間は貴重だな」
「そう言って頂ければ・・・」
 
 だが、まず書く人間の人間としての成長が第一義である事を思った。書く題材を生活の中から見つける眼をどのようにして育てるか気づかせなくてはならないと考えていた。
 大木田は今の現実を直視しなくてはならないと思った。最初にドラマツゥルギーを教え、テーマの貫通行動を、そして交差するモメントに小さな対立するテーマによってのドラマをつくりながらテーマを盛り上げていく作法をマスターさせなければならないと思った。脚本分析の方法を知らなくては書けない、その重要性を教えなくてはならない事を伝えることにした。
大木田は逃げる事を辞めあの純真な心にこたえることにしていた。
それは偏に何がなんでもやりぬくと言う由美の姿勢に共感してのものだった。現代の娘のいたずらな心の動きを受け止めてそれを延ばすことに重点を置くと言うものであった。
今日、由美は学校へ行っていた。学校へ行ってもなにもすることがなく、演劇部の部室で時間を潰していると言った。
そんな由美に大木田は宿題を出していた。
「人と人との別れを書くように」と言うテーマだった。これが納得させるように書ければ、後は簡単に生活の中の矛盾などたやすく書けるのだ。
 今ではまだこんな事を教えているところはないだろうと思った。基本、ドラマツルギイーなど脚本分析など関係なく、形式にとらわれなく書く人達が全体を占めていた。

「先生、ものすごく難しいんですけど」
 由美はそう言って少しふくれっ面をした。
「だから、なんだと言うのかな」
 そうたやすく書けるものではない事を大木田は承知していた。また、五枚と言う枚数の制約のなかで書くとなるとなかなかまとまるものは書けない、それを一番に宿題として出したのは彼女の天分を見定めたいと言う事もあった。
「別れ、私の歳でも沢山の別れを持ち知っていますが
、何をどのように書けばいいのかまとまらないんです」
「だが、それを解決し心の中で分析しなくては・・・。その繰り返しが書くと言う事だから」
 大木田は別れに登場する人達の過去と現在と未来が見えなくては台詞一つ書けないと言う事を知ってほしいのだった。
「まあ、時間は沢山ある。よく考えて書いてほしい、完璧なものを期待しているわけではないからな」
「私には早すぎませんか」
「物を書く、それは人生を知ることの大切さもあるが、君の年齢で新しいものを見つけて書けばいい事だ」
 彼は少し頬を緩めて由美を見た。
「ずるい、私を苦しめて喜んでいるように思えます」
「そうかな、創る事はこれから君が成人して好きな人が出来てその人の子をうむ、出産の苦しみに似ている事なのだよ。女性として生まれてこそその喜びを感じその幸せを感じるために頑張る事に通うじると思うがな」
「そこまでひやくするのですか・・・。」
「ああ、そこまで、想像力をはたらかせてほしい・・・」
「さようなら、の言葉の意味がそれぞれ違うと言う事は分かるのですが…」
「そこに気がつけば立派だよ。その一つのセリフはその人の過去と現在と未来を見つめて知らなくては書けないと言う事なのだから」
「そうか、ありがとうございます。なんだか分かるような気がしてきました…」
 由美は何度もうなずいていた。
「ひとつ、教えようか。書く登場人物一人一人の箱書きにする事、どのような親に育てられ、何をしてきたか、またこれから何をしようとしているのか、君の頭にある事をどんどんその箱に書き込むことだと思うな」
「そんなんだ、ありがとうございます」
 由美は突然大木田にむしゃぶりついてきた。
 大木田は柔らかい肉の塊を受け止めて温かいと思った。

  


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